§2.可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」
[承前]
不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「
可能性の形而上学」の裏面でしかない。
この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。
「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。
それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「
可可能性」(可能なる可し)としている。
またそれは「
内可能性」(in- possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。
「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。
そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。
それで、可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。
つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。
自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。
しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。